朝日ヶ丘班ニュース/地域住民の声


-入植当時の貴重な画像-

 八ヶ岳南麓に位置する朝日ヶ丘の歴史は、開拓のために入植してきた人々によって切り拓かれました。

 標高1100mの高冷地ゆえに、「何もない、何も育たない」この大地に『夢を叶えたい』という希望を抱いて、開墾していったのです。

 彼等の残した開拓精神(フロンティア・スピリット)は、今でも現代のパイオニアたちによって、この地に脈々と伝わっています。





このコーナーは朝日ヶ丘に暮らす地域住民のインタビューを紹介します。


Vol.21 朝日ケ丘4組 藤居晃さん
 4組のペンションセカンドさんにお話を伺いました。家族構成はご主人の藤居晃さん、奥様の裕子さん、長女の牧子さん(現在小淵沢に勤務)長男の景君(現在八王子にある専門学校に在学)。ご主人は東京生まれで湘南育ち、以前の仕事は高級ブランド品の販売と卸しの会社に勤めていました。奥様は湘南生まれ湘南育ち、以前はアパレル関係のお仕事をしていました。会社勤めが向いていないと悟ったご夫婦は自然の中で暮らしたいと考えていました。そこへ清里の知り合いから朝日ヶ丘の土地の紹介がありペンションを始める事となりました。

 昭和59年に8部屋定員23名で開業しましたがその後隣にバリアフリーのコテージ2棟をオーナー自ら建てました(バリアフリーとしては清里初)。今は本館を大幅に改装して2部屋+コテージ2棟と定員を減らしB&Bスタイルで営業しています。自作のコテージを拝見させて頂きその完成度に驚きました。実は藤居さんは清里に来てから土方、植木、水道、工務店と建築に関わるアルバイトを経験して来た事から家作りのノウハウを全て覚えてしまっていたのです。

 趣味を伺うとペンションも建築現場も休みの時はベンチチェスト、カップボード等の木工品を作る事。いつでも体を動かしている事が趣味だそうです。奥様は元々ニットの仕事をしていましたから毛糸、原毛を使ってセーターや帽子、マフラー、猫玉等の小物作りが好きで現在フェルト教室も開催しています。
またお子様が小さい時はセーターは全てお母さんの手編みだったそうです。

 藤居さんは平成12年〜14年に朝日ヶ丘班長と西清里区長を努められ、任期中にトナカイ作り、ホームページの立ち上げ、班費自動振替、こもれび橋の名称公募、独居高齢者に対する支援、初回の朝日ヶ丘祭り等に尽力されました。特に朝日ヶ丘祭りは育成会の無い当区の子供達の心身の成長の為考えられました。当時は子供達が収穫したサツマイモを焼いたり、お肉の固まりを焼いたりのささやかな行事でしたがそれが現在の盛大な祭りになり感無量とのことです。

 最後に朝日ヶ丘に対する思いとして「清里で育った子供達が戻って来て住みたいと思えるよう、開拓の原風景を少しでも多く残したい。生き甲斐を持てるような元気のある清里になって欲しい」とお話して下さいました。奥様も「朝日ヶ丘に住んで不便も不満も感じた事はありません、山歩きや花作りが出来るこの自然が大好きです」とお話して下さいました。
(平成20年10月取材)

Vol.20 朝日ケ丘2組 若林秀穂さん
 食欲の秋、なかでもじゃがいもは秋のお野菜にかかせませんね。そのじゃがいも料理のお店・喫茶ふきのとう経営、朝日ケ丘2組の若林秀穂さんと奥様の智子さんにお話を伺いました。

 お子様は既に自立され長男大地さんは長野県駒ケ根に勤務ですが現在は中国に出張中です。次男の大平さんは埼玉の結婚式場の調理スタッフとして勤務しています。奥さんの智子さんは北海道札幌市出身、旅行が好きで昭和55年56年と清里へ遊びに来た時秀穂さんと知り合い遠距離恋愛が実を結び昭和57年に結婚されました。若林さんは静岡県富士市の出身で若い頃から旅が好きで本当は北海道に住みたかったそうですが親の意見もありロケーションが北海道に似ている清里に住もうと先ずは長坂町の(株)キッツに勤務しました。昭和54年に清里の喫茶店に3年勤務し、昭和57年に念願の喫茶店をオープンしました。


 店名のふきのとうは春一番に咲く花から取ったそうです。メニューはジャガ芋を使った様々な料理があり「ポテトグラタン」「ジャガ芋パン」「ジャガカレー」特に自家製のパン粉を使った「ポテトコロッケ」はレトロな味でお勧めです。若林さんは日曜大工が得意で店の看板、椅子、東屋、テーブル、ログハウス等は自作です、作品を見た友人から制作依頼もあるそうです。また店内に飾ってある手作りの「ほおずき」のランプは一見の価値があります。




 若林家の驚くべき事は暖房が薪ストーブで一冬まかなえる事です。昨今高値の灯油をあまり使わなくて済むというとても羨ましい話です。ただし薪割りの肉体労働は結構厳しいものがあるようです。

お店が林に囲まれているのでリス、ヤマネを見かける事もあり、テラスの餌台には野鳥が毎日来るので偶然居合わせたお客様は「食事しながらバードウオッチングが出来るなんて!」と思いがけない幸運に声をあげます。暮らしの中での難儀は牧場通り迄の雪かきと大雨によるバラスの流失で今年のような度々の豪雨には閉口したそうです。お子様二人も自立したのでこれからは日帰りではなく1〜2泊でのんびり旅行をとのこと。現在その実行に向けて夢のキャンピングカーを(軽トラックの荷台に乗せるボックスを)製作中です。

追記
10月20日から放送のフジTV月曜日9時〜の「イノセントラブ」堀北真希、北村悠仁主演の撮影でふきのとうが使われました。
(平成20年10月取材)

Vol.19 朝日ケ丘5組 武井たけ子さん
 賑やかな清里高原の夏も静かな秋を迎える季節に移ろいました。最低気温も一桁の日が続き冬支度が始まります。ペンションにとっても忙しかった夏を終え、今回は朝日ケ丘5組ペンション・コットンハウス経営の武井たけ子さん宅に伺いました。

 同居の家族は二男の和喜さん・奥様の美恵子さん・三人のお子さん和津斗(小5)喜哉(小3)柊汰(小2)君の6人家族です。武井たけ子さんはお隣り長野県茅野市生まれ、大きな農場を持つ岡谷市の信州ミートファームに嫁ぎました。その会社はレストランも経営していて直営農場の豚を武井さん自ら解体していたので肉については特別詳しいそうです。

 清里に住むきっかけは昭和58年、知人の紹介で清里駅前地区に小料理屋「千岳」を始めた事からでした。昭和61年に現在のペンションを購入して3人の子供を育て上げ、平成7年から二男夫婦と共に現在に至っています。ペンションを始めた当時は清里観光ブームの最中だったので大変忙しく7月〜9月は休む暇もなかったそうです。また清里ペンション組合の婦人部長の時には清里は勿論、山梨の宣伝にも奔走されました。頑張れたのは武井さんの持ち前の明るさと農家に生まれ育った自慢の体力のようです。アットホームで癒せる宿を常に心がけているので時にはお客様から心の悩み等様々な相談を受ける事もあったそうです。趣味は山菜採り、野菜や花作りとの事です。

 母と共に働く和喜さんは甲陵高校フェンシング部でインターハイ出場経験を持つスポーツマンです、今は県内のハーフマラソンに出場するのが楽しみだそうです。高校卒業後は市ヶ谷の陸上自衛隊に入隊、6年後に除隊して清里に戻って来ました。現在は清里ペンション組合の事務局、清里観光振興会の理事、消防団、食品衛生組合等の多くの役を受け多忙ですが地域に住んでいれば何らかの関りを持つのは当然との思いで頑張っています。現在は清里ペンション組合の外国人受け入れについて山梨大学を始め県内の各大学教授との勉強会に力を入れているそうです。

 武井さんは最近の清里を心配して「若い人達がそれぞれ力を合わせ個々のカラーを出して頑張って清里を元気にして欲しい」と切望していました。お二人を取材して家族の絆の強さを感じました。
(平成20年9月21日取材)



Vol.18 朝日ケ丘2組 篠原邦彦さん
 朝日ケ丘2組の開拓二世の民宿「アルムハウス」篠原邦彦さん宅に伺いました。

家族構成はご主人の邦彦さん(S22年生)奥様のみゆきさん、娘さんのさやかさんはピアノ教室(出張可)と自宅で書道教室を開いています。息子さんの元輝さんは現在福井県の関西電力原子力発電所に勤務中です。そして愛犬ウララ(♀13才)がのんびりと番犬を務めています。

篠原さんは清里小、高根東北中(現在のわかば保育園の場所にありました)、甲府一高を卒業し神奈川大学に学びました。地元シェルスタンドに勤務する傍らご両親の経営する民宿「篠原牧場」を手伝い、昭和52年に隣地に「篠原牧場別館(現アルムハウス)」をオープンしました。奥様は長坂町出身でご主人とは上記シェルスタンドの社員時代に知り合い結ばれました。

清里は昭和50年代以降一大観光ブームでペンションが右肩上がりで急増する一方民宿は減少して行きましたが、御二人が実直に経営努力された結果、今は95%がリピーター客だそうです。勿論開業当初のお客様は皆高齢となっていますので今はそのお子様達、お孫さん達の代となっています。民宿時代のエピソードを伺うとご主人がPTAや地区の役員、山岳救助隊、地域のスポーツ大会等に駆り出され大変だったそうです。特に水道組合の役員の時は断水事故で突然召集されるので奥様は一人で無我夢中で働いたそうです。

ご主人の趣味は山登りで50年の歴史がある高根山岳会の会員で今も登山道の整備を行っています。奥様は土いじりが好きで300坪の畑には花豆、落花生、ズッキーニ、カボチャ、ヤーコン、モロッコインゲン、ジャガイモ、ピーマン、ほうれん草、シソ、大根等栽培しています。ご家族の共通の趣味は音楽鑑賞で時にはサントリーホールやオーチャードホールまで出掛ける事もあるそうです。また結婚20周年を機に始めた海外旅行も楽しみの一つとなり昨年はメキシコに旅行されたそうです。「体が元気なうちに色々な国を訪れて見たい」と意欲的なお話を伺いました。
(平成20年7月12日取材)


Vol.17 朝日ヶ丘4組 南浦(みなみうら)章二、ふみ代ご夫妻
 朝日ヶ丘に転居してまだ一年足らずの4組のペンション「はなみずき」経営の南浦(みなみうら)章二、ふみ代ご夫妻を紹介します。同居の家族はトイプードルの愛犬ごんた君です。

ご主人は奈良県出身で長く大阪市役所に勤務していました。奥様は阿波踊りで有名な四国徳島生まれ、ご主人とは縁あって大阪で知り合い結婚されました。お二人とも趣味が旅行との事で信州方面には良く出掛け、山梨も清里の地はお気に入りで定宿もあったそうです。

以前からペンションを始めようと思っていたところ市役所の異動で市の福利厚生施設の寮長を二年勤め接客業に一段と関心が深まりました。そして自分達が旅行で感じた味わった喜びを伝えたいとの気持ちからだそうです。接客はご主人担当。料理は奥様担当で和食中心のメニューです。ホールには奥様の手作りのクラフト作品が沢山並んでいます。一例を上げるとビーズアクセサリー。アッセンデルフト(オランダ風に描くペイント)。パッチワーク作品等です。ちなみに玄関の看板も奥様の手作りだそうです。

「営業を始めてまだ一年、試行錯誤の毎日ですが、山梨は果物や野菜が新鮮な事。大阪では出来なかった山菜採りも楽しいです。同じ組の方達が様々な事を親切にアドバイスしてくれるので本当に助かります。また毎月の美化活動で地域の方々とお会い出来る事も楽しみです。」とお話を伺いました。
(平成20年7月6日取材)


Vol.16 朝日ヶ丘3組 笠原忠さん
 今回は3組の笠原忠さんを紹介します。

笠原さんは昭和6年に横浜市港区中村町に生まれました。戦災で家を失い昭和22年頃清里に入植されたそうです。小中学生時代は比較的裕福な家庭に育ち毎週のように映画館に通ったり根岸の海岸で海水浴を楽しんだり、蓄音機で音楽を聞いたりしていたそうです。(女優の岸恵子は隣組でもあり、小学校の後輩になるそうです。)

そんな生活が日大三高に入学時に一変しました。戦争が激しくなり学徒動員で軍需工場で砲弾や飛行機の部品を造る事になり笠原さんの青春時代を飲み込んでしまったのです。空襲で工場も自宅も焼け出され全てを失ってしまいました。

その後山梨県の開拓審議会入植者選考部会の審査を受け、純粋入植者としての適格認可を受けたのです。25年償還の入植一時金21万円を借り(年額返済元金16000円に対し利息9000円)父母との親子三人で清里での開墾生活が始まったのです。当初はジャガイモ、トウモロコシ、麦等を作り自給生活の日々でした。農閑期には電気工事(電柱を立てる仕事)や美し森周辺の植林のアルバイトをしていました。その後乳牛を5頭飼い生活がやっと安定したそうです。

現在は独り暮らしの生活で不便、不安はないですかと伺うと、子供の頃から興味があった絵画(挿絵やレタリングは資格所持との事で沢山の絵やスケッチを見せて頂きました。)カラオケ、CDでの音楽鑑賞や
BS放送での映画鑑賞を楽しんでいるそうです。食材等の買い出しは隣町に住む妹さんがサポートしてくれるそうです。

朝日ヶ丘については「意見が良くまとまるし、若い人達が良く頑張ってくれている」とのお褒めの言葉を頂きました。
(平成20年6月21日取材)



Vol.15 朝日ヶ丘3組 市村堅吉さん
 今回は2組在住の市村堅吉さん宅を伺いました。家族構成は奥様の登代子さん。長女咲さん(東京勤務)。長男悠哉さん(韮崎勤務)。次女香織さん(大学生)。愛猫ムニャ君(♂)です。
 ご主人の出身は群馬県嬬恋村で高原キャベツと鬼押出しで有名な所です。奥様は地元清里生まれで東京で銀行に勤められていたそうです。
市村さんは、現在キープ協会の農場長として勤められています。昭和42年にキープ協会の清里農業学校に入学し、昭和45年卒業、昭和48年に再び戻り、昭和49年にアメリカ、メリーランド州に農村研修生として2年半派遣されました。(メジャーリーグのボルチモアオリオンズの本拠地として有名。)昭和52年に帰国、キープ協会職員として現在に至る。

 農場に飼育されている牛は現在140頭(搾乳牛はおよそ80頭)一日当たり1トン。1頭当たり約15kg採れるそうです。県から借地されている土地は広大ですが牧草地としては70ヘクタール(1ha3.000坪)。牧草が主体の餌は気候の変動が無い限り自給出来るそうです。飼育されている牛は全てジャージー種です。ホルスタイン種に比べると高冷地に適さず乳量が少ないですが、ポール博士の精神を受け継ぎ「量より質を」にこだわっています。作業は朝3時に出勤、4時30分に搾乳(季節で多少変更)仕事の終了は午後6時です。酪農は朝早いとは聞いてはいますが、さすが3時には驚きました。またスタッフは4名と伺い再び驚きましたが平成11年に最新設備が完成し作業効率が格段と良くなったからだそうです。(搾乳作業は見学出来ます午後は3時20分頃)。牛乳は群馬県のタカハシ乳業で一括して商品となり関東一圓と大阪の一部、また帝国ホテルの調理場にも以前から使われているそうです。お話を伺い今多くの消費者に求められている質の良い安全な食品を造っているのだという自負を感じました。

 市村さんは一昨年当班に居を構えました「以前から清里に終の住処をと思っていました、縁あって朝日ヶ丘に住む事になりましたが住民の皆様ととても良い交流が出来て本当に良かったです」とお話をして下さいました。    (平成19年10月20日取材)

追記。キープ協会清里農業学校は昭和38年に開校2年制で全寮制。全員にジャージー牛の子牛を与えて2年間飼育した上で卒業時には郷里に持ち帰る事が約束された。優秀な生徒はアメリカの牧場に派遣された。当時農家の若者が渡米するという事は異例中の異例であった。当初は酪農は清里で学べと言われ全国から希望者が集まった、しかし社会構造の変革で年々入学者が減り昭和51年に閉校。120余名の卒業生がポール博士の恩恵を受けた。



Vol.14 朝日ヶ丘2組 谷口信さん
 今回は開拓二世の谷口牧場経営、谷口信(46才)さんを紹介します。家族構成は奥様の香美さん、長女愛美(中3)さん、次女希美(小6)さん、長男直(小3)君です。牧場ですから人の数より多いのは動物達で馬27頭、犬2匹、ヤギ2頭、猫2匹、牛1頭の合計(34頭、匹)の大家族です。

 谷口牧場は父の谷口彰男さん(平成12年逝去)が昭和31年に朝日ヶ丘に継承入植で入りました。東京に生まれ北海道帯広畜産大学を卒業後20代の若さで清里の土を踏みました。他の入植者同様穀物〜酪農でしたが腰痛を患い昭和39年に清里第1号の民宿を始めました。プレハブ小屋で定員4名からのスタート、1泊2食で800円だったそうです。昭和40年代に民宿ブームとなり、次々と増築して初年度年間16名だった宿泊客は最盛期には5,000名を数えました。
 お父さんは郷土史や考古学にも造詣が深く、町(当時)の郷土研究会の役員を長く務められました。また自宅周辺から土器、矢尻の破片も出土している事もあり筆者も縄文弥生時代のこの辺は狩り場だった証拠を見せて頂いた事もあります。信さんは「父はいつも植物図鑑を持ち歩いていたので草木にも詳しく、聞けば何でも教えてくれました。」と思い出を語って下さいました。

 信さんは地元高校を卒業後上京していましたが昭和60年に帰り民宿、乗馬、バーベキュー等の経営に本格的に係わるようになりました。エピソードは当時のアルバイトの中に動物写真家の星野道夫さん、映画監督の篠原哲雄さんも大学生時代の2〜4年間を谷口牧場で過ごしたそうです。特に星野さんとの付き合いは深く、信さん香美さんの新婚旅行はアラスカだったそうです。

 平成12年から信さんは経営を養老馬の預託事業と観光乗馬に軸足を変えました。現在は定員一杯の16頭を預かっています。(ここで言う養老馬とは今まで乗馬クラブ等に居た20才を越えた老齢馬の事。飼い主が手放す事は処分される事なので馬の余生を最後迄見てあげたいと希望する馬主からの預り馬の事だそうです。)現在の厩舎を建てるについては米国のサラブレットの産地ケンタッキー州へ視察に行かれたそうです。それは人様の大切な馬を預かるのにいい加減な厩舎を作れないという真剣な思いからでした。その真摯は思いは預託事業を開始してから本人が入院した日を除けば一日も休んだ事がない事に表れています。「老齢だからいつ何が起きてもおかしくない、自力で立てなく自力で餌が食べられなければ判断を下せますが。馬は我慢強く表情を出しません、内臓の病気は外から判断出来ませんし、1頭1頭死に方が違います。出来るだけ最後は苦しんだりしないよう獣医さん馬主を交えて判断するのが一番大変ですし一番辛い事です。」幾頭かを見送ったお話も伺い生物を扱う大変さを実感致しました。

 牧草地でアメリカ製のトラクターで働く姿を見ていると絵にもなるしカッコ良いな〜と思いますが。仕事は朝6時〜夜の7時。365日の肉体労働。家族旅行は日帰りしか出来ないとの話を聞いて大変な事だと痛感致しました。 最後に信さんは乗馬指導の資格を持って居ます。班の皆様も機会があれば富士を眺めて清里で最高に眺望の良い場所での乗馬は如何でしょうか。        
 (平成19年6月17日取材)

追記。※星野道夫「動物写真家としてあまりにも有名。1996年ロシア取材の時ヒグマとの事故により急逝。毎年全国各地で写真展が開催され多くのファンに今でも感動と影響を与えている」。
※篠原哲雄「映画監督、明治大学法学部卒業、96年「月とキヤべツ」でデビュー。06年浅田次郎原作「メトロに乗って」。今後益々活躍が期待される監督。谷口牧場に係わった様々な方々が国内外で活躍しています。



Vol.13
 今回は2組の篠原瑛彦(62才)さんに勤務先の八ヶ岳少年自然の家でお話を伺いました。同居のご家族は奥様のさつきさん、長男和訓さん、次男裕さんです。篠原さんは県の外郭団体(山梨県青少年協会)の職員として30年近く勤められ2年前に定年を迎えましたが現在も嘱託として勤務されております。

 篠原さんは今は亡き父(義一さん)母(津多江さん)と満州から引き揚げて清里に入植されました。開拓時代の思い出は幼かった為あまり記憶は無いとの事でしたが、丸太小屋に住み、薪ストーブとランプ生活、懸命に鍬で原野を開墾している父母の後姿は忘れられないそうです。最初は野菜や穀物栽培でしたが収穫が少なく、その後ジャジー牛を10頭程飼い生活が安定したそうです。

 昭和40年代に酪農から民宿に経営を転換しました。屋号は『篠原牧場』当時は民宿最盛期の頃で「相部屋でも何処でも良いから泊めて下さい」と言う飛び込みのお客をさばくのに苦労したそうです。平成14年頃迄民宿を続けて来ましたがお母さんが亡くなり奥様一人では無理との判断で止める事となりました。思い出は「テレビの取材で宍戸錠、鶴田真由に会えた事」だそうです。篠原さんの趣味はゴルフ、映画鑑賞、囲碁(現在四段、県の大会で三段の部で優勝経験有り)また自宅の庭には自称「小さな野菜畑」がありタラの木やコシアブラを移植して増やしていますし、広い牧草地にはワラビも生えるので居ながらにして山菜取りが出来るという大変羨ましい話です。

 最後に現在副班長として努めて頂いている事もあり今後の朝日ヶ丘について伺いました「朝日ヶ丘祭りのイベントの中でも実施しているが、この恵まれた自然の中で子供達が豊かな心を持って成長出来るよう、生まれ育った場所を愛せるようなプログラムが出来たらと思う、班民の皆様からアイデアを出して欲しい」とのお話しでした。
(平成19年5月20日取材)
 
追記
県立八ヶ岳少年自然の家は定員210名。指定管理施設制度となった現在、主に保育園から大学また老人会等各種団体が利用。施設内容は会議室、体育館、プラネタリウム、工作室、図書室、キャンプ場。また各種体験教室、アスレチックを含む冒険ハイクが出来ます(但し宿泊者対象)。


Vol.12
 今回は1組の長田興業会長、長田孝雄(74歳)さん宅にお邪魔しました。家族構成は奥さんの光枝さん娘さんの尚子さん。孫娘の玲ちゃん(中1)そして愛犬のメリー(♀)ジュリー(♂)です。ご夫妻の出身地は地元長沢地区です。起業する前の仕事は山梨交通の路線バスの運転だったそうです。当時美し森には国民宿舎、スケート場、フィールドアスレチック、町営宿舎高根荘等があり、とても繁盛していました。その韮崎ー美し森線を朝5時50分発の始発から最終便迄の時など奥さんは三食の弁当を用意して毎回バスターミナルに届けるのですが夏場は弁当が痛みやすいのでとても気苦労したしたそうです。

昭和50年前半に旧町営住宅から朝日が丘に自宅を造りました。当時の会社の主の仕事は県営八ヶ岳牧場本場の造成でした。現在のような広大な牧草地にする為、立ち木の抜根や大きな石を片付けるには多くの危険が伴っていたそうです。エピソードは、木の枝を現場で燃やす時など近隣に告知していても檬々とする煙を見た住人が「火事と思い」消防署に電話するので何度も何度も消防車が駆けつけて来るので閉口したそうです。

現在は息子さんに社長を譲り、趣味は釣りと愛犬との散歩との事ですが、特に釣りは365日と言い切る程の入れ込みで長野県相木村の湖に「信濃雪マス」(カワカマス科、別名アムールパイク)を連日釣りに行くので長野県では「佐久読売新聞」に載る程の有名人になっています。
奥さんの趣味は季節の山菜取りや地続きの畑での野菜作り。ナス。瓜。大根。インゲン。ズッキーニ。トウモロコシ等大量に出来るので夏は野菜を買った事が無いそうです。また農薬を殆ど使わないので親戚や知人に配ると多いに喜ばれているそうです。

最後に朝日が丘班についてのお話を伺いました。自分達の地域についてのお互いが意見を交わす機会があまりにも少ない気がする。田舎に住んでいるのに都会のような付き合いが寂しいとおっしゃっていました。
 
引き続きすぐ近くに住む息子さんの長田孝二(43歳)さん宅も伺いました。

家族構成は奥さんの京子さん娘さんの桃香(中1)さん。トイプードルの愛犬メリー(♂)です。

孝二さんは大学卒業と同時に会社を引き継ぎ、若き社長として頑張っています。主な事業は一般土木で、最近の工事は小海線の線路上の市営駐車場の道路整備。清里風の丘公園のモニュメント。朝日が丘の牧柵。同防火用水槽。上下水道等を手掛けています。頂いた名刺には「お父さんはがんばっています!」と言う文字がロゴマークの隣に印刷されていました、伺うと会社の経営理念の中に「常に一流の工事を行い、お客様の満足と信頼を得る。」とありました。ポールラッシユ博士の影響を受けたからとの事です。またその経営姿勢は町内では数少ないISO(国際基準)を取得して、品質マネジメントシステムの着実な実行により顧客の満足を得る為、より良い物作りに努めてもいます。

孝二さんは地元小学校、帝京高校、日本大学法学部に学びました。子供の頃からスケートが大好きで(小学校の授業は全てスケートだったそうです)。その才能は高校で発揮され国体で県代表になりました。大学では県代表の一員として釧路国体リレーの部で3位という名誉も残しています。

朝日が丘についてお話を伺いました。高根町内で班に公民館或いは集会所が無いのは当班だけでしょう。例えば地震等の災害で避難する場所。役員会や組単位の会議の場所。昨年度、清里小のPTAの会長をした折の他の集落や町内の他の小学校の活動を知り、朝日が丘には公民館が無い為活動しにくいと切実に感じました。当班の子供達の健全な成長と地域の交流を計る為、育成会的な場所が必要ではないでしようか。と心配されていました。

奥さんは八王子の出身、実家はケーキ屋さんだったそうです。19歳の時に清里に観光客として遊びに来た時、萌木の村で美味しいケーキと巡りあい。翌年そのケーキ屋さんに就職しました。そして孝二さんと知り合い、平成6年に結婚しました。趣味は多才で音楽、読書、人形の服作り、そして勿論パンとケーキ作りです。筆者も時々お裾分けを頂きますが、とにかく美味しくて図々しくも次を期待してしまいます。
清里に住んでみて、寒い所だとか交通の不便を感じた事は無いそうです。朝は鳥の声で目覚めるといったこの自然環境が大好きだそうです。
(平成19年4月27日取材)


Vol.11
 今回は、前朝日ヶ丘班長また西清里区長を務めた2組のペンション「森のポケット」経営、山中眞司、保子さん宅を伺いました。清里で育った娘さん息子さんは既に親元を離れ独立しているので、現在はご夫婦で宿を切り盛りしています。ご主人の出身は山梨県鰍沢町、奥さんは塩山との事です。

 山中さんご夫婦は昭和48年、地方公務員の保養施設「清翠荘」に支配人として居住されました。平成12年に県財政の問題や1県1施設(当時県内には3施設)にという本部の通達もあり、取り壊されましたが、27年間勤務しながら地域の役職や奉仕活動に精力的に参加して頂きました。27年間のエピソードを伺いましたら、開始当時は一泊二食付3,400円、定員60名、清里の観光ピーク時にはアルバイト6、7人雇い年中無休、特に夏休みの約40日間は毎日16時間勤務状態でとても忙しかったそうです。当時の開拓道路(現牧場通り)は未舗装でトラック等が通過するとたちまち埃だらけ、家々も少なく街灯も無く夜は真っ暗でした。その頃は約26世帯の開拓者のみで配布物や集金は上の輿石宅から下の奈良宅迄が担当範囲でした、「昔は留守だったりお金の用意がつかなかったりで配達や集金が一日で終わらなくてね、それと伺うと何処でもお茶が出るから話し込んでしまうからね、でものどかで良い時代だったね」と懐かしい開拓時代のお話も伺いました。

 平成12年より以前の常連客の強い要望もあり、「森のポケット」を始めましたが2年後には班長に任命され、朝日ヶ丘のホームページの立ち上げ、朝日ヶ丘トレイルコース作りと整備、本格的な朝日ヶ丘祭りの開催等事業を行いました。数あるエピソードの中での思い出は、清里体育祭は毎年人集めに苦労するそうですが、「今年こそ優勝出来るチームを集めたと喜んでいたら雨で中止になってしまった事」だそうです。

 ご主人の趣味はゴルフ、今はあまりプレイしないそうですが、一番良かった時はハンディ14だったそうです。また山中さんのカラオケは有名です。民放のカラオケ番組に出演して優勝、他のカラオケ大会でも幾度か優勝しています。奥様の趣味はドライフラワー作り、室内に沢山飾ってあるのが作品です。季節の楽しみは山菜取りやキノコ取りとの事です。お二人の共通の楽しみは県内の美術館や博物館を見学する事、そして最愛のお孫さんの成長を見守る事だそうです。山中さん二期四年本当に大役(班長と区長)ご苦労様でした、そしてお疲れ様でした。
※(県営清翠荘は現朝日ヶ丘住宅の付近にありました)
(平成18年11月29日取材)


Vol.10
 今回は当班4組の三井恒夫さん奥様の由希さん宅を伺いました。三井さん夫妻は以前の「ヒュッテ・ヴァルト」を改装し昨年9月から居住されて、本年6月1日に「ヒュッテ・グーテライゼ!」としてオープンされました。「グーテライゼ!」はドイツ語で”良い旅を!”という意味だそうです。ドイツでは旅人を見送る時に必ず使う言葉だそうです。ご主人の以前のお仕事はオリエンタルランド(東京ディズニーランド)に平成17年春迄22年間勤務していたそうです。主に接客を中心だったそうですから、取材している私を含め朝日ヶ丘の多くの住民は、何処かの会場で擦れ違っているか、言葉を交わしているかも知れません。
 三井さんと清里との付き合いは古く、幼少時代は両親と来清し、高校時代は趣味の写真撮影でC56(小海線を走る蒸気機関車)の撮影に度々訪れていたそうです。一時清里が観光ブームで脚光を浴びた頃は足が遠のいていましたが、以前から自然の中で暮らしたいと心の中では沸々と感じていたそうです。ブームが去って再び清里を訪れ「牧場通り」を見た時ふたたび自然の中で生業をしたいという強い想いが、定年を待たず清里に移り住む事を決意させたのでした。
 ご主人は東京世田谷区、奥様は練馬区の都会生活で何かと田舎暮らしに戸惑ったのではと想像したのですが、ご主人は霜柱の大きさに驚いたそうです。「都会の霜はサクサク、清里はザクザク」また地面が凍る事にも「ツルハシが跳ね返された」「勝手口の扉が開かない」など想定外の出来事に驚いたそうです。奥様は「確かに都会の生活は便利ですが、今まではゆっくり物事を考えたり、集中して取り組む事が出来ませんでした。清里は自分のペースで生活が出来ます。寒いけど朝日ヶ丘の景観がとても気に入っています。私達を快く受け入れてくれて感謝しています」とのご返事でした。また趣味の洋菓子とパン作り、生け花は韮崎迄習いに行っているそうです。お二人は地域に溶け込む事も不得手とせず、昨年の「朝日ヶ丘祭り」には焼肉担当、今年はキノコ汁担当で準備から後片付けまでご夫婦で参加しています。
 三井さんは日大芸術学部写真学科在籍でしたので勿論趣味は写真。宿のホール棚には本人も認める「星野道夫」フリークで星野さんの多くの写真集と書籍が揃っています「清里が星野さんと係わりがある事を後で知りました(谷口牧場で星野さんが若い頃働いていた事他)清里に来る運命だったのかも知れませんね」と印象深く語って下さいました。「グーテライゼ!」”良い旅を!”と心を込めた接客にお客さまは必ず満足される事を実感して取材を終えました。
(平成18年11月4日取材)


Vol.9
 今回は奈良英子さん宅を伺いました。ご家族の長女は鎌倉、次女は東京にそれぞれ嫁いでいます。私が伺った日は甲斐犬「タラ」と三毛猫の「ふじこ」が主のような顔をして居ましたが実は隣家のペットで飼い主の仕事の都合で日中はほぼ毎日奈良宅で警護と癒し役を務めているとの事です。

奈良さんのご主人の事は(平成4年にご逝去)多くの方が知っていると思いますが、早稲田大学出のインテリであり、小説「燃えつきた原野、清里」の作者であり、清里開拓組合の組合長や念場ヶ原開拓水道組合の組合長を永年務めた方であり、朝日ヶ丘の景観の保持に心を注ぎ、理想の酪農を追求した人でもありました。

昭和28年頃、国の食糧増産対策事業の施策もありキープ協会の茅野農場長(当時)を慕い、大学卒業と同時に第1号の実習生となりました。茅野氏の指導の下、朝日ヶ丘に3町6反の後継入植者として入りました。開拓の苦労は誰も同じでしたが、その中でも奈良さんは自分の理想とした農場作りに取り組みました。先ず設計図を引いて此処は牛舎を配置、此処は牧草地、サイロの位置は等々。いま当班で一番牧歌的な風景の原点を既に考えていたのでした。育成牛についても血統にこだわり数々の共進会に出場する程の牛を育てオール日本ホルスタイン共進会3回連続出場。山梨県の共進会では優等賞の農林大臣賞の栄誉も受けています。

英子さんは静岡県生まれの一人娘だったそうですが、縁あって昭和33年に酪農の「ら」の字も知らず奈良さんと結婚され、生活環境の違いにただただ驚く毎日だったそうです。戦後の食糧増産の目標に志して始めた酪農も国の減反政策、乳牛の生産調整等の時代となり、初期の目標が無くなり昭和40年代後半にとうとう止める事となりました。

今の英子さんの楽しみは読書や花の手入れ、例の犬と猫、敷地内にある苗木から育てたトチの木、ブナの木等の自称「私の雑木林」があり。新緑の頃と紅葉は私を癒してくれます、足が無いので(車の事)行政の催しに参加する事が出来ないのが少々残念ですが、寒い冬の雪かきには近所の方がかいてくれます。独り暮らしを心配して様子を観に来てくれる方もいます。景観委員を中心とした方達が草刈りをしてくれます、私は本当に良い人達に恵まれています、そんな清里が大好きだから微力ですが清掃活動には出来るだけ参加して、皆様と共に可能な限り朝日ヶ丘に暮らしてゆきたいとのお話しでした。
(平成18年10月14日取材)


Vol.8
 今回は私達(朝日ヶ丘)のホームドクターである「森の診療所」院長、武部兼一 郎さんをご紹介します。ご家族は奥さんの倭加子さん、息子さんの一隆さん(現在は 豊田市在住)娘さんの祐加さん、そして愛犬のパディです。

 清里に住む経緯は学生結婚された武部夫妻が新婚旅行で清里に来た事から始まりま した。初めての清里に息を飲む程の雄大な大自然に感動されたそうです。またマー ケッティングの為常宿にしていたペンションのオーナーとも懇意になり、様々な地域活動に共鳴した事も理由の一つだそうです。 その最中(財)KEEP協会より委託を受け聖ルカ診療所を4年間運営してきましたが、1994年(平成6年)当班に念願の「森の診療所」を 開業しました。エピソードを伺いましたら開業初日に蜂に刺されてショック症状で担ぎ込まれた患者さんがあったそうです。様態は非常に危ないものでしたが、冷静に対 処出来たのも日本医大の第1内科に居た時、山形の尾花沢にて地域医療を経験していた事が役にたったとのお話でした。また近くの牧場から馬の具合が悪そうだから診てくれとか、天然記念物のやまねを保護したから診てくれとか頼まれ、当時は人間では 無く獣医のほうが良かったのかな?と思った事もあったそうです。

現在は多くの人間の患者さんが来ますが遠方からは東京(これは日本医大からの継 続で)お隣長野県から1/3、地元山梨が2/3の割合だそうです。
最近の病気の傾向は高血圧、高コレステロール、糖尿病、肥満の所謂生活習慣病が 多く、アレルギー、感染症、故からによる鬱病も増えているとの事です。
有難い事にリゾート地としての務めだからと最近はお盆中も開業しています。また地域のホテル等と連携して「観光と健康」をテーマとしてお客様に健康診断、生活指導、温泉療法、運動療法等の医療サービスも行っています。

今年からは清里観光活性化にも取り組み、先ず天女の湯の源泉を地域施設に配布出来るよう山梨県知事に嘆願書を申請中です、また急速な高齢化と団塊世代の退職時代 を迎えるのにあたり「清里老人王国」を計画中です。これは老人と共存共栄する事即ち「介護」+「福祉」=収入と雇用が発生する産業を作る事です。具体的には本年末 に国道141号沿いの4千坪敷地に「ディサービス」をオープンさせます。認知症対応、1人でも、一生でも、一時でも、県内最大60人規模だそうです、将来は温泉センターも作りたいと大きな夢を描いています。

武部先生は高校までミュージシャンを夢見ていたそうで「ケニー」と言うミュージシャンネームを持っています現在も週一度自宅で音楽仲間と練習、月一度はコンサー トを開いているそうで担当はギターとボーカル、既に8曲のCDもあるそうです。私 も早速「清里の歌」を聴かせて頂きましたが、とても癒される曲でした。4年前からはサーフィンを始め湘南の海を青春しています(本人は老いに対する抵 抗と言っていますが)。 最後に清里の事を伺いました「朝日ヶ丘は田園生活が出来る場所、牧歌的で一番好 きな所です、昔は老後はハワイに移住なんで考えていたけど、今は一人娘が医大を目指して頑張っていますし、私は清里に骨を埋めるつもりです」と言って頂きました。
(平成18年7月28日取材)

追記:開拓時代の清里は寒村であり、交通にも恵まれず、医療の恩恵を受けるには程遠い村でありました。第二次世界大戦後に再び来日したポールラッシュ博士が清里及び近 隣の村々の衛生状態は最悪である事を痛感し、東京聖路加国際病院の協力を得て19 50年(昭和25年)に聖路加診療所を完成させました。昭和40年には病院として 昇格、通院用にマイクロバスが購入され21床の入院棟も完備、住民は東京の一流の 医療を受けられる事が保証されました。昭和55年には老巧した建物の隣に74床、 建坪1,100平米、二階建ての立派な施設を新築し清里聖ルカ病院としてスタートしましたが度々の労働問題が発生し一時閉鎖後、平成3年に武部先生に業務委託されま した。平成7年に役割を終え現在はキープ自然学校として活用されています。 ほかには駅前(現フェステ清里)に峡南病院の八ヶ岳診療所(6床)がありましたが昭和56年に営業を終えました。東念場地区にも念場診療所(藤井所長)が一時期ありました。森の診療所の診療科は内科、小児科、アレルギー科、漢方、特殊鍼治療、糖尿病です。 


Vol.7
 今回は開拓の長老の一人浅川忠義さん宅を伺いました、家族構成は奥様の和喜さん、息子さんの忠彰さん、愛犬ブル君です。

浅川さんは隣町の須玉町津金のご出身、昭和25年頃朝日ヶ丘と地名が付く前に入植されました。当初はあまりにも荒地で、小豆、大豆、馬鈴薯等を作ってもつくってもお金にならず、開墾しながら日雇い労働をしていたそうです、何をして良いか分からずにいた時、県からの奨励もあり、先ず綿羊を北海道から2頭購入したそうです、耕耘機も車も無い時でしたから片道約5キロを歩いて清里駅迄連れに行ったそうですが、綿羊も長旅で疲れていて1頭が途中で動けなくなり、今の豊国神社あたりから抱きかかえて帰って来たそうです。ある冬綿羊が病気になり当時は獣医さんも居なくて困っていたら清里村(当時)の保健婦さんが膝まで届く雪道を歩いて来てくれて人間用の注射を打ってくれたそうです、その日は綿羊を家の中に入れて畳の上で一緒に寝た事が一生忘れられない思い出との事でした。

昭和28年頃から平成3年頃まで牛20頭を飼い酪農をしていましたが、実は旧国道沿いでも雑貨屋を営んでいました(以前の家があった所)、屋号を伺ったところ「中ッ沢という川が流れていたから中ッ沢ちの店と呼ばれていたよ」との事、干魚、駄菓子、乾麺、乾物、ロープ、飼料等開拓者相手のお店だったそうです。

酪農も店も辞めた浅川さんは町の教育委員や選挙管理委員、甲府検察審議委員等の役職を依頼されたりして地域に貢献してきました、また朝日ヶ丘の旧開拓組合代表も務め清里の景観の源となっている国有防風保安林の管理、開拓道路の整備等を精力的にしています。

長野県御代田出身の奥様とは昭和37年結婚され今年で43年目を迎えます。最後に浅川さんは、清里村が合併で高根町となりこの朝日ヶ丘部落は高根町の74番目の行政区となりました、その時の町長さんの話の中で「観光は農業に咲いた花だと思います」と聴き、今でも身近に聞こえてくる言葉でないかと思っていますと話して下さいました。今回浅川さんから”農地は大切な宝”なんですよとのメッセージを頂いた気がしました。(平成18年6月24日取材)


Vol.6
 今回は朝日ヶ丘で一番最初にペンションを始めた小沢勝子さんを紹介します。

清里のペンション第1号は昭和53年に八ヶ岳地区に開業した「はーと」さんと言われていますが、小沢さんはその前年の10月15日に「ロッジ幹」(定員18)名で開業しました、当時はまだ民宿の全盛期(約50軒)の頃、ペンションと名乗る事に抵抗感を抱かれてはと遠慮しロッジと付け民宿組合に加入しました。昭和55年に29軒に増えたペンションをまとめ「清里高原ペンション組合」を発足、屋号も「パンシオーネ幹」と改め今は亡きご主人が初代組合長を長く努められました、開業した頃はいわゆるアンノン族ブームで宣伝しなくても若年層のお客が押し寄せるように来て予約を断るのに苦労したそうです。

平成元年にご主人に先立たれ、定員を5名に減らし孤軍奮闘して来ましたが、開業した時が50代後半という年齢的な事もあり常連客に惜しまれつつ平成16年に閉じる事になりました。

小沢さんと清里の関わりはご主人が退役して会社経営の折、良く夏休みには当時海藤さんが経営する「山彦山荘」に10年程通い、また民宿小野牧場さん、谷口牧場さんにも泊まったそうです、当時今は亡き開拓の租小野宇考さんから「そんなに清里が好きなら土地を買って山小屋を建てたらどうか?」と勧められ昭和33年頃現在の場所を購入したのがきっかけだそうです。

ペンションを始めて直ぐ地域と馴染めたのも上記のようなお付き合いがあった事は否めないですが、移り住んでから谷口信さんの亡き母上から地域の舞踊グループに誘われたのをきっかけに名取を取得したり、信者では無いけどアンデレ教会のお手伝いをしたりと積極的に地域に溶け込んでいます。

横浜生まれ横浜育ちの小沢さんは隣家に娘、娘婿、孫そしてひ孫も居ます、冬の雪かきは大変ですが清里の全ての季節が好きです、特に四季の山々の色の違いが好き、横浜に行っても直ぐ清里に帰りたくなります、清里大好きと言って下さいました。
(平成18年4月16日取材)


Vol.5
 今回は当班では数少ない酪農家の嶌崎利夫さん宅を伺いました。

ご家族は奥様、長男ご夫妻、お孫さん2人の6人です、嶌崎さんは東京都の小河内ダム建設による移転で子供の頃(昭和14年)清里に入植されました。昭和27年には農林省(※現農水省)集落酪農地域に指定された事もあり、翌年、前任者の離農地朝日ヶ丘に入植して、昭和30年より子牛1頭を購入し酪農での生活を決意しました、当時は牛4頭程あれば生活が安定すると言われましたが、購入したのは子牛で乳が出るまで3年かかり生活は厳しいものでした。当時の清里は雪も多く馬ソリを引いて八ヶ岳の中腹まで薪を取りに行ったり、住宅事情も悪く−27℃の寒波が来たときは生き残れてホットしたと言う事です。

その後米国の外圧や規模拡大路線、乳量生産調整によるペナルティ(※牛乳を安く買い取られる事)、畜産公害等、長い年月にはいろいろ苦労がありましたが、現在は息子の富士雄さんに経営を任せ乳牛40頭、育成牛20頭を飼育しています。365日休み無しの仕事も平成2年からヘルパー制度も出来たので月に一度はお休みが取れます。ちなみに1頭のホルスタイン牛から採れる1日の搾乳量は約20kg〜25kg、1升ビン10本〜15本位だそうです。

朝日ヶ丘に当初20戸あった酪農家も現在は嶌崎さんを含め3戸となっていますが消費者に喜ばれる安全で安心な酪農を今後も続けて行くとのお話を頼もしくも伺いました。
(平成18年1月30日取材)


Vol.4
 今回は朝日ヶ丘に昭和54年10月6日に永住した佐々木正亮、千代子ご夫妻にお話を伺いました。

ご主人は東京の第一銀行(現みずほ銀行)を定年退職し清里に新居を構えたその当時、まだ班は約40世帯位しかありませんでした(現在は約80世帯)。最初に苦労したのは水道です。当初は開拓者の水道組合から給水して貰えず、やむを得ず敷地内をユンボウで掘り、水を汲み上げたりしましたが、直ぐに枯れてしまうので近くの池から水を運んで来たり、近所の家から貰い水をしたそうです。

 その後皮肉にも銀行出身という事もあり、その組合の庶務会計を任れ、町営水道に統合されるまで、長期間役員を務められました。また、朝日ヶ丘の区長も務められ、当時はいわゆるバブルの真っ最中で清里の地価も驚異的に上がり、リゾートマンションも建ち始めました。危機感を感じ昭和58年に町内では初めての「朝日ヶ丘の希望宣言」「朝日ヶ丘クリーン宣言」等を打ち出し、押し寄せる乱開発を防ぐ為、自ら矢面に立って下さいました。暫くして、県が景観形成条例を制定しましたが、その礎を朝日ヶ丘が作ったと云うのは過言ではないでしょう。

 奥様は北杜市長坂町出身で、ご主人との馴れ初めは教えて頂けませんでした。花と野菜作りが大好きで、野菜はズッキーニ、モロッコ豆、ピーマン、ナス、シシトウ、大根、ほうれん草等を、花は山野草を百種程度で一年中なにかしらの花が咲いています。ロックガーデンも自作です。

今年は二人の年齢を合わせると172歳、健康の秘密は毎日の散歩、ラジオ体操、ストレッチとの事。「清里は一年を通じてとても自然が良い所、ここに住む人間でないと良さがわからないでしょう。厳しい冬は雪が積もれば近所の人達がときには玄関まで雪をかいて下さいます。皆良い人達で私達は幸せです」との言葉に喜びを感じつつ、取材を終えました。
(平成17年10月23日 文責 白倉)


Vol.3
 3回目は、長老格のお1人 小野八男さんのお宅にうかがいました。

ご家族は、奥様の淑子さん 息子さんの正孝さん御夫婦 お孫さん3人と、最近では大家族の構成です。

小野さんの清里での歴史は更に先代の宇孝さんから始まります。宇孝さんは、戦時中 東京、甲府と空襲を逃れ、県職員の勧めもあり食料増産の開拓団のお1人として清里へ入植しました。昭和20年6月の終戦まで間もなくと言う頃でした。
当時、機山寮という農民道場があり54戸の入植団はそこを経て一つの集落を作り生活を始めました。立ち木を組み、藁で屋根を葺く そこからのスタートだったようです。「タネほどもイモ取れず。」 種イモより収穫の方が少なくて「いっそ種イモを食べたが早い。」ような状況だったと聞いたことがある。と八男さんが話してくれました。子供を寒さから守るためダイダラボッチ{米俵}に入れて寝かせた家庭もあった、との事。

そんな厳しい状況の中、耕作面積が狭すぎる事もあり集落は次第に拡散して行き、いよいよ宇孝さんは現在の朝日ケ丘へ移って来ました。54戸の入植者の内 、清里に残ったのは10戸に満たない方々でした。農業に加え酪農を始めた宇孝さん一家、そんな中 娘さんの淑子さんと八男さんが昭和35年に結婚され、家業にもグンと勢いが増しました。

昭和30年前後の頃、清里では酪農が盛んに営まれていました。しかし、一方で民宿ブームと言う波もまた近づいて来ていた時代。小野さん一家の選択は、酪農と民宿の兼業と言う方法でした。牧場と言う地域特有の環境に訪れる人々を招き入れ、そこで生産された牛乳を提供する。「今で言うグリーン・ツーリズムの原点なのかな?」取材をしながらそんな事を思いました。更に、弓道場・アーチェリー場を併設する等かなり先進的な経営方針を持たれていた様に思われました。

さて、当時の朝日ケ丘を語っていただく時 もう一つ欠かせない話題が有ります。

念場ケ原水道組合のことです。念場ケ原とは朝日ケ丘を含む昔ながらの字名のことです。水道組合に関しては一冊の本にもなっていますので機会があれば紹介したいと思います。要するに、公共事業である水道事業を集落で施設、運営、管理して行くと言うことです。

朝日ケ丘と隣接する下念場では昭和38年から63年まで共同でこの事業を展開していました。小野八男さんも、当時の仲間と供にこの事業の中心的な存在でした。手仕事で水源を掘り、管を敷設し、各戸に分配する。もちろん断水等のトラブルにも対処する。そんな、気の遠くなるような作業が昭和63年に町営化されるまで25年間綿々と続けられました。

「とにかく、水汲み運びの苦労が無くなり蛇口をひねると水が出てくるこんな有りがたい事は無いと思ったワ。」奥様の遠くを見るような視線が印象的でした。昔の苦労話を豪快に笑い飛ばす小野さん、「運の悪い時は誰にも有るけど人は皆 平な場所に居るもんさ。」そんな風に語ってくれた小野さんに朝日ケ丘の将来について尋ねました。
「元々ここは他の地域と比べても世代間の垣根は、あまり無かったように思う、これからも話し合いの中で出切るだけ多くの人がより良い方向へ足並みを揃えて行って欲しい。」そう締めくくってくれました。
息子さんの正孝さんは、10年ほど前からガラス工房を開設し、小野さん一家は又、新しい歴史を歩み始めています。


Vol.2
前回とは逆に今日は朝日ケ丘歴1年弱の福田さんご夫妻に登場していただきました。

福田さんご夫妻(征四郎さん/浩子さん)は、昨年9月に横浜から清里に移って来られました。12〜3年前からオフシーズンを中心に清里内の常宿に年2〜3回訪れていたとのことです。長年勤めていた広告の会社をリタイアされて、奥様の「信州に住みたい」のひとことでこちらを選んだそうです。なかなか土地選びにも神経を使われたようで駅まで歩けるが静かなところ、保安林が隣接していて環境が変りにくい、診療所もすぐ近くという理想的な場所をみつけられたようです。

こちらに来て間もないご夫婦ですが、清里内でのさまざまな活動に参加したり、又畑を借りて色々な野菜を育てたり 積極的に楽しんでいらっしゃるようです。清里を訪れた方と一緒に歩きガイドブックにのっていないような情報を提供するというようなボランテイア活動もすでに始めえていて、その為細かい道などは、むしろ我々より詳しくご存知なのでおどろきました。先日も電車でいらした年配の女性2人をご案内して、美し森付近から朝日ケ丘まで歩かれたそうです。最初は清里にそれほど良い印象をもっていなかった訪問者も帰る時には「是非また訪れたい。」と気持ち良く帰られた、との事です。見知らぬ場所を訪れて、どこへ行ったら良いのか分からない状態の訪問者に自分の考えで楽しみ方を提案できるというのは、とてもやりがいがあることだと話してくれました。又、ご自宅を横浜にいた時の地名から取った<きりがおか山荘>と名づけているように横浜からのお友達も度々訪れているようです。

横浜から清里に移って印象に残っていることは?
 夜が暗いことに驚いた。、横浜ではめったに使わなかった車のハイビーム   
 をこちらではよく使うようになった。。 

生活パターンも、夜型から完全な朝型に変ったそうです。そして食生活も規則正しくなり、とにかくお腹が良くすくそうです。

こちらに来て不便なこと、困ったことはどんなことですかと尋ねたところ面白い答えが返ってきました。
 美味しいマグロが手にはいらない。(特に奥さま)
 そして、本屋が少ない(これはご主人)
 ゴミの出し方が複雑で戸惑った。

冬の寒さはどうですか? という質問に対する答えです。
 寒さは厳しいけれど張りつめたようなキーンとした空気の感じが好きです。
 そして室内は都会よりも暖かくて過ごしやすいような気がします。
日常の中で都市との生活の違いが象徴的な形で表われたような気がして楽しい答えでした。「もちろん不満だと思っている訳ではありません。」と付け加えてくれました。

居を構えた朝日ケ丘について語ってください。
 牧草地と建物の雰囲気のバランスが良くとれていると思う。
 酪農家の仕事がとても重労働だということをこちらに来て強く感じて
 いるが、是非ともこの景観を保ってもらいたいと思う。
 牧場通りはとても雰囲気のある通りだと思う。
 朝日ケ丘色を意識した小さなお店(喫茶店や雑貨やさんなど)がもう少し
 多くなればもっと歩くのが楽しくなると思う。
  
清里内外に伝えたいメッセージを聞かせてください。
 清里は自然の豊さを中心に色々な顔があります。
 訪れる方には朝日ケ丘を含めて色々な顔を見ていただきたい。
 清里に住んでいる人間には色々な魅力をもう一度再確認して、それを守り
 発展させて欲しい。

お話しをしていて何度も思ったことですが、随分前に自分が感じた事、そして忘れがちな思いを新鮮な言葉で思い出させてくれたような気がします。都会の、大人の感性を持った人が増え、そして長くこの朝日ケ丘に住んでいる人との調和の中でますます朝日ケ丘の色が濃く出てくるのかなアという印象を持ちました。


Vol.1
『朝日ケ丘な人々』第1回は、開拓1世から3代まで一緒に暮らしている輿石(こしいし)さんご一家に登場してもらいました。

元々、キリスト教司祭の家で生まれた裕爾(ゆうじ)おじいちゃんは、先に清里で農村伝導の仕事をしていたお兄さんを訪ねて昭和22年に秋田から移ってきました。教会に住み込み兄の司祭の手伝いをしている時に、やはり信者で教会に通っていた奥様と知り合い結婚されました。

その頃のちょっと面白いエピソードを聞かせてもらいました。

その1 
清泉寮のキャビンはTOUHOKUとかKOUBEなどの名前がついています。それは、もともとキリスト教区の名前で、各地から伝道者などが集まった時それぞれの教区ごとに泊ったのが始まりだそうです。

その2
ポールさんはアメリカで清里開拓のために多額の寄付を集めてくれました。その為に清里の人々の様子を映した映画を製作しました。それに輿石さんたちもたくさん出演したそうです。(写真1)「演出がなかなか凝っていて色々やらされたなあ。」と話してくれました。どうやら今のプロモーションフィルムのルーツのようです。

他の開拓者と同じように、最初、雑穀づくりの農業をしていたおじいちゃんは 昭和40年、いよいよ酪農の仕事に着手しました。牛3頭からのスタートでした。その頃の奮闘振りは次の機会に回すとして、2代目の正(ただし)さんは小学生の頃からお父さんの仕事を手伝い中学の頃には酪農を継ごうと意識し始めたそうです。お父さんから「家業を継いで欲しい」というような言葉を聞いたことはなかったそうです。「自分はこの地に足を着けて暮らして行きたい、そのために酪農を選択した。」 正さんの言葉はストレートでシンプルです。

現在、輿石牧場は成牛45頭、育成牛45頭を数えるようになり、正さんは奥様とふたりで毎日頑張っています。3代目の活(いきる)くんには「家業を継いで欲しい」というような話をしたことがありますか? という質問に正さんはこんな風に答えてくれました。「そういう話しをしたことはない、活が酪農を継がなかったとすれば、それは私が自分の仕事の楽しさを子供に伝えてやれなかったということでしょう」…活くんはそばでニヤッと笑っていました。自分たちは清里に来た時<来たれ者>と言われた苦い経験がある。今、新しく朝日ケ丘に来る人に対しては、心を開き大きな気持ちで受け入れたい。そして、これからも朝日ケ丘がずっと心地よい場所であって欲しいと、おじいちゃんも正さんも付け加えてくれました。

後記 
このページは親子で朝日ケ丘内のお宅へ訪問してインタビューするという方法で作っています。今回一緒に取材した私の息子(活くんの同級生)の感想は「おじいちゃんの話しがとても面白かった、元気で白髪もなくて良く喋るね。」でした。よく活くんの家にも遊びに行っている息子にとっては酪農家も、宿屋をしている私の家も同じ朝日ケ丘の普通の家庭、ということです。